第4回 後輩に夢を!

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 私が歯科衛生士になろうと決意したのは、昭和42年の高校3年の時。今から思えば、日本に歯科衛生士法が制定されて20年経過した頃ですね。私の高校の卒業生の中に歯科衛生士になった人は、たった一人しかいなく、担任の先生にしつこくその人に逢いたいとせがみ、無理に連絡を取ってもらって、いろいろ仕事の内容を聞きました。

 私の17歳の印象としては、地味な仕事で“歯医者さんのお手伝いさん”そして苦労話ばかりを聞いたように思います。でも、専門学校の案内パンフレットには、「歯科疾患の予防業務が確立されており、アメリカでは独立した職業」と明記されており、その文面に魅了し、今の日本ではお手伝いさんでも絶対将来性のある女性の職業だと信じて入学したものです。当時は、女性が職業を持ち生涯働くキャリアウーマンへの憧れもあったのです。

 富山県内には養成校がなく、隣の石川県の歯科医師会立専門学校に入学しました。1年制だったこともあり、あっという間の1年間でした。皆当たり前のように、開業医に勤務しました。私は、親元を離れて生活したい憧れもあり、金沢市内の歯医者さんに住み込みで働きました。 診療所の2階に従業員が住み込みで働けるように台所があり、当然自炊しながら診療所の管理、早朝5時から受付開始、掃除、後片付け、錠の管理までが私の業務範囲です。7歳年上の歯科衛生士さんが9:00〜17:00まで非常勤で1名、歯科医師1名、歯科技工士1名、助手1名と私の計5名のスタッフです。当時としては、珍しくないスタッフ数です。

 一日の患者数は100人前後が普通でした。多忙な診療の中でも時折先輩の口から発する歯科衛生士像は、やはり苦労話ばかりでした。多分、当時全国の先輩の業務は、過酷で将来性について後輩に語る余裕など無かったのだろうと推測します。私としては、先輩の苦労が未来を変えるような話を聞きたかったのですが、他の誰よりも自分だけが苦労しているような苦労自慢にしか聞こえなかったのです。

 次の年、両親からそろそろ親元に帰郷するよう命令(?)され、富山に帰ることを決意。偶然にもその年に、県の保健所に歯科衛生士の募集があることを新聞で知る。県議会議員に歯医者さんがいらっしゃり、歯科保健行政についての質問から、歯科衛生士を県に採用することになったとのことでした。ラッキー!!何も迷うことなく試験に臨みました。大勢の人の受験でした。めでたく合格!!この時から私の人生が急変したのです。

 昭和46年4月、県の富山保健所に歯科衛生士が新しい職種として採用、保健師(婦)さんの隣の席でした。仲間は誰一人いません。仲間がいないことは、とても心細いことでした。仲間を集めるため、公的病院に勤務している歯科衛生士に声を掛けようと2人を訪ねるが、ただ職場の条件が良いからお勤めしていますと言わんばかり・・・。 当時県には、 歯科衛生士会が未だ組織されていなかったこともあり、その組織作りについて提案したのですが「どうせ歯科医師会から潰されてしまうわよ!無駄ね!」と言われ、頼りにならないと思ったものです。情報は教えてもらえたのですが、力にはなってもらえない先輩でした。残念!!

 右住左住しているうちに、県歯科医師会の執行部の先生のところに勤務している歯科衛生士さんと出会う。同じ仲間を集めたい旨を相談すると共感してくれました。一つ年上の先輩でした。エネルギーをもらった気がしました。この時初めて良い先輩に出会ったと思いました。 そして、昭和48年に十数名の仲間で富山県歯科衛生士会を発足したのです。全国で43番目の発足で、遅いほうでした。私の年代では、確かに歯科衛生士以外の業務で苦労した人はたくさんいらっしゃったようです。その方々の苦労があったからこそ、現在の日本の歯科衛生士をここまで発展させたとも言えます。

 でも、若い頃、私に夢を持つようアドバイスしてくれる良き先輩が欲しかったものです。私の夢は、後輩に、歯科衛生士は素晴らしい仕事だと胸を張って夢を与えることだと、20歳代から今の50歳代まで一貫して変わっていないのです。 保健所に採用された歯科衛生士が珍しいこともあり、地元の新聞に掲載された記事を、先日私の老いた両親が切り取りアルバムに貼ってあったのを読んで、当時から歯科衛生士は独立した仕事をすべきだと私は訴えていたのでした。きっと、保健所の業務をしていても、そのことを感じていたのでしょうね。独立という概念を捨て切れないのは、やはり、アメリカの発想で誕生した日本の歯科衛生士は、何故独立できないの?からくる単純な疑問です。

 50歳で県を退職し、“歯ぶらし屋さん”の開店は、私の世界では、ある意味の独立です。私のことをよく知る仲間は、とてもこのことに感激してくれました。しかし、独立ではない、単にエステ業界に参入しただけと言う人もいました。

 ところで、平成18年4月の介護予防の導入により、新しい歯科衛生士の業務として介護職に参入できたことは、独立の近道に誘ってもらったようなもので喜ばしいことですが、矛盾と落とし穴がありました。

 介護の世界では、重篤な歯周病を持つ人以外で、自分でみがけない人の口の中をキレイにみがいてあげるのは、医療行為ではないとし、誰でもできるというのです。つまり、介護を受けている高齢者や障害者、寝たきり者のことです。但し、自分の手を動かすことができる人の歯と口をキレイにするのは医療行為とされています。 この論点について、明確な文面はありませんが、現在、大筋の歯科界の考え方だそうです。歯みがきについては、今後も、どんどん議論されていくでしょうが、あなたはどう思いますか?一般の人の捉え方はどうでしょうか?

 かつて、血圧計で血圧を測定することについて、医療界で議論が交わされたことがありますね。自分の健康の目安として、血圧測定を一般の家庭に普及するまでとよく似た視点ですね。このようなことを追求し始めると、自分で手を動かすことができる子供に仕上げみがきをするのも医療行為と言う人もいます。 歯ぶらしを口の中に入れるのは歯科衛生士だけしかできないはずだ。いや、資格があっても関係がない。それでは、耳の掃除も医療行為?どう解釈すればいいの。いろんな意見が出てきます。これまで、私が保健所で保育所、幼稚園、小学校、中学校の歯みがき指導を依頼されて、直接口の中に歯ぶらしを入れて歯みがき指導をしてきたけど、それも医療行為だったの。直接指導した方が、顎模型や平面で指導するより、生徒は分かりやすいのに・・・。 これじゃ、“歯科保健指導”と言うより“歯科保健説明”ではありませんか。こんなことばかりしている歯科衛生士だって、みがいてあげる方がいいに決まっていると思っているはずです。だから、歯みがき指導と言うと、嫌われ、いつまでたっても上手にみがけないのです。もっと根底から見直さなければ、国民の歯に対する健康感が育たないのです。後輩達よ、君たちはこんな日本の歯科衛生士をどう考えますか。

 後輩には夢が持てる仕事を、道を与えてやりたい。これを私の使命感として、今、全国の同意する歯科衛生士さんに新しい仕事として、まず、デンタルケアシップの経営を呼びかけているのです。その足がかりをつけ、基盤を固めることを次回のテーマに書いてみようと思っています。行列のできる“歯ぶらし屋さん”の経営研修企画です。

 次回につづく

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